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学校の式典さまざま [外国の素敵な教育]

ほとんどの方はそうだと思いますが、私の生活でもブログを書く時間や体力のない時期と比較的余裕のある時期が交互にきます。仕事のスケジュール、子どもの予定、自分の活動、生活上の雑用etc。今日までは少し余裕があり、来週は忙しくて学習指導要領のパブコメを書くだけで精一杯になりそうなので、珍しく連続エントリーになりますが、学校の式典について書く気が冷めないうちに記事にしておきます。

ところで、学習指導要領案についてのパブコメは、
・あまり細かく規定しすぎず、現場での工夫や裁量が十分活かせるように活かせるようにしてほしい
・道徳や愛国心など心の領域に入り込む教育の難しさと危惧
・愛国心を強調するならば、むしろ世界市民的感覚や発想を伸ばすようにしてはどうだろうか
というようなことについて、書いてみようかと思っています。でも、まだ内容をちゃんと掴んでいないので、まずは資料に当たります(でも膨大ですね〜)。

さて、学校の式典についてですが、いつも読ませていただいているshiraさんのブログで、厳粛な式は「国際標準」ではないこと、教育に関する法律や通知や通達で入学式、卒業式を挙行しなくてはならないとはどこにも書いていないことなど、とても興味深いテーマが取り上げられていました。→http://sshshouron.blog.so-net.ne.jp/2008-03-02#more

そしてコメント欄を拝見していると、一般市民の方は「学校の式典というのは厳かなものである」という意識がかなり強いように感じました。小学校から高校、大学まで、あの固〜い雰囲気で毎年、毎年やっていれば、そう感じる方が多いのは不思議ではないと思います。

しかし、教育という見地から考えた時、どうでしょうか。
一つの事象(この場合は学校の式典)を捉える考え方として、
1.これにはAという方法もB、Cという方法もあるが、○○○という理由で私たちはAという方法を採用している
2.これはAというやり方で行うものだ(つまり、B、Cは最初から思いつかず選択肢にない)

このどちらが生きた知識であり、人生を豊かにして、社会に出てから役立つ考え方でしょうか。このブログの読者の方はほとんどそうだと予想しますが、私は1のような考え方の教育が優れていると思います。もしそういう思考を経て採用されたものならば、厳かな式典であろうがカジュアルなものであろうが、どちらでも良いでしょう。ただ、私としてはある程度カジュアルで自由度が高い方が、真心のこもったアイデアがたくさん出てくるように感じます。ともかく、そうする理由を学生(や先生方)がきちんと理解していて、他の方法も考慮した上で、決定するというプロセスが大事だと思うのです。

私はまだ外野の立場ですが、いまの教育の流れに危ういものを感じるのは、こういう考え方のプロセスをすっとばして、上から結論を教え込もう、またはそちらにうまく導こうという動きが見えるからです。

そして、ついでに言うならば、その結論がかなり独りよがりであり、自分も他者も、日本も世界も幸せにするような考え方ではないと感じています(このへんは立ち位置により意見が異なってくる部分だとは思いますが)。

では実際に、他国ではどんな式典が行われているのでしょうか。ごく少ない例ですが、私が読んだ範囲で書いてみます。まずはこのブログでも何回も書かせていただいている「青い光が見えたから」(高橋絵里香さん)から、フィンランドの高校の卒業式の描写です(文字の強調は私がしました)。

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 フィンランドに来て三度目の春、卒業式でJagaimo(まい注:絵里香さんが作ったバンドです)が演奏することになった。卒業していく同級生のために最後に何かしたいと思い、私から提案したのだった。
(略)
 卒業式当日、校舎は満員で、一階や三階にお客さんが並んで椅子に座り、階段もカメラを持った人たちに埋めつくされていた。二階には今日の主役の卒業生たちがスーツやドレスを着て座っていた。なつかしい顔ぶれを目にしても、これが最後だという実感はわかなかった。
 他の人の演奏が次々に終わり、あっという間にJagaimoの番が着た。
 「それでは次に、Jagaimoが二曲続けて演奏します」
 客席からカメラのフラッシュが連続して光り、集まっている人の多さに目がくらんだ。二階を見上げると、友達の和やかなまなざしが、私たちに降りそそいでいる。
(略)
 いよいよ卒業証書授与が始まったので、みんなで控え室の外へ出て、その様子を見守ることにした。卒業試験の結果が載った証明書と、高校の卒業生だけがかぶることができる白い卒業帽が、担任の先生と校長先生の手によって一人一人に手渡された。正装して校長先生の前に立ち、卒業帽を手にする仲間たちの姿は凛々しくてとても立派に見えた。
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ほどよくきちんとしていて、ほどよく楽しい雰囲気のように感じます。なお、フィンランドでは卒業式後に卒業生の各家でパーティーが開かれるのが恒例とのことで、親戚や友人が集まるそうです。絵里香さん(彼女は4年間で卒業するコースを選択したので、友人たちより1年長く在校しました)は八人の友達のパーティーに招待されたそうです。

次はオーストラリアの小学校の入学時の様子です。「オーストラリアの小学校に子どもたちが飛び込んだ」(柳沢有紀夫氏)から、ごく簡単に・・・。なぜなら入学式がないからです。

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 オーストラリアの学校にはいわゆる入学式がない。入学の日、子どもたちは発表された教室に行く。親たちも同行するが、荷物を机の中にしまうのを手伝い、先生に挨拶したら、そこでサヨナラである。
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この子は次男さんで1年生から入学するのですが、お兄さんは1年生の途中から編入します。その時の様子がなかなか感動的なので書いてみます。

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 キャロル先生に連れられて、いよいよ教室に向かったのは、午後九時半前である。本来は八時五十分が登校時間なのだが、初日なので、少しクラスが落ち着いてから行くことにしましょう、と先生が判断したのだ。
(略)
 キャロル教頭先生がドアをノックすると、中からセサミ・ストリートのクッキー・モンスターのような顔の女の先生が出てきた(まい:どういうお顔でしょうね)。
 「まあー、あなたがタイガね。私はジェニングス先生よ。よろしくね」
 私と妻は、先生と挨拶する。
 「じゃあ、タイガ。行きましょう」
 大河が先生に背中を押されて入る。その瞬間、中から子どもたちの揃った声が聞こえてきた。
 「コンニチハ、タイガサン!」
 何と、クラスメートたちが日本語で出迎えてくれた。
 教室の外から見ていると、先生が大河を紹介する。
 「彼が、タイガよ。日本から来たので、英語がまだうまくできないの」
 だからみなさん仲良くしてあげましょうね、と続くと思っていたら、大違いでした。
 「でも、タイガは日本語ができるのよ。みんなが知らない日本のことをたくさん知っているのよ。すごいと思わない?みんな、タイガがこのクラスに来て、ラッキーよね?」
 「イエーィ!!!」
 小さな子どもたちの大きな声が教室から響いてきた瞬間、私の涙腺は思わず緩みそうになった。言葉ができない子は、普通に考えれば厄介だ。トラブルを抱えるのが嫌で、プリスクール行きを勧めたヒゲもじゃ校長をつい悪役に仕立ててしまったが、彼は正直と言えば正直だろう。でも、ジェニングス先生と子どもたちは、「英語ができないけど、日本語ができる。自分たちが知らない日本のことをたくさん知っている」とポジティブにとってくれたのだ。
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 オーストラリアの小学校はとにかく陽気でポジティブな感じです。またご紹介したいと思いますが、特に下級生のうちは良いところを誉めて誉めて、肯定的にみて育てているようです。

また、高橋絵里香さんに戻って、フィンランドの高校の入学時です。

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 エーヴァによると、今日は式というほど形式ばったものは用意されていなくて、新入生や在校生のために校長先生がスピーチをすることになっているらしい。
(略)
 校長先生のあいさつは、きいていてもほとんど理解できなかったので、その間フィンランドの高校生を観察することにした。およそ七百人の生徒たちが、ごちゃっと固まりになったり、バラバラになったりしながら、吹き抜けのホールが見わたせる踊り場に立っている校長先生を見上げていた。日本と違って列にもなっていない。エーヴァの言ったとおり、カジュアルな服装をしている人ばかりで、リュックを背負っている人が多かった。
(略)
 おどろいたことに、先生たちでさえスーツを着ていないのだ。校長先生は、かろうじてフォーマルな格好をしていたが、トレーナーなどラフな服装の先生たちがほとんどだ。もっとびっくりしたことに、この高校の四十人あまりの先生のうち、八割は女の先生だった。しかも、ベテランの先生ばかりで二十代や三十代の先生が見当たらないのだ。なんだか、日本の学校とはずいぶんちがうようだということが、これだけ見てもはっきりと感じとれた。
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こういうふうに、外国の学校の様子をブログに書いていると、いつも知らないうちに頬がゆるみ、幸せな気分になります。日本の教育や政治について考えて、常に暗い気持ちになっている私ですが、別世界に来たように感じます。その違いは何なのでしょうか?いつも考えるのですが、それはやはり学校の自由な雰囲気と一人ひとりを大切にしているという様子が伝わってくるからのように思います。

こういう国の人たちにとって、「学校に行く」というのは生活の一場面であって、あくまでもそれぞれの人の人生が先にあるように感じます。日本で式典があれだけ厳粛さを求められているのは、心身ともに学校第一、学校への帰属意識を高めることを意図しているのかもしれません。

また、日本のように列を作らせたり、背の順に並ばせたりすることはいちがいに悪いとは思いませんが、他国のように「固まりになったり、バラバラであったり」しながら、それでも各人がちゃんと人の話を聞く態勢に入るというのは、そちらの方が高度な知性を要求され、自由ななかのマナーという点で私は評価したいです。

さて最後に、日本でも堅苦しくない式典や会をしている学校を簡単に紹介しておきます。

埼玉県にある自由の森学園:生徒たちが主体で卒業式を企画し、ひな壇に座るのは主役である卒業生たちです。
http://jiyuunomori.air-nifty.com/jimori/2008/03/2120080302_478f.html

和歌山県のきのくに子どもの村学園:「卒業(入学)を祝う会」です。在校生の保護者の方の文章を紹介します。感動します。http://yokodo.exblog.jp/5742930/

こういう式典はわずか1年に1〜2日のことですが、その学校の教育方針がそのまま見える日だと思います。そういう点も納得できる学校に子どもが入ってほしいと願う私です。



2008-03-08 13:25  nice!(2)  コメント(5)  トラックバック(1) 

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コメント 5

tamara

まいさん、いつも入念な記事ですね!
卒業式シーズンは多くの教員にとっては、常に胸苦しくなるときです。それも世代交代で変わってしまうのでしょうが。「こうでなければならない。」という強制こそが、教育の本質に反するのですが、この当たり前のことが社会常識として通らないのが実に不思議です。全国いっせいに同じことを同じスタイルでやっていたら不気味だと思うのですが。
by tamara (2008-03-08 21:13) 

shira

 トラックバックいただきありがとうございます。小学校の入学式、ないところもけっこうあるんですね。とても勉強になりました。
 自分の記事に書いたように、私の大学には入学式がありませんでしたが、それで別に何の問題もなかったです。むしろ一人暮らしの準備が忙しかったので、式に出る手間がないのがありがたいくらいでした。
by shira (2008-03-08 23:23) 

ayu15

「自主性・他者の尊重」の文言はどこにいったのでしょう?
武道強制と似た発想?

束縛魔さんと似てるかも(笑い)

by ayu15 (2008-03-09 08:47) 

東西南北

ayu15さんへ。

「束縛魔さんと似てるかも(笑い)」

 前にもayu15さんのブログへ投稿してコメントしてayu15さんに削除されましたが、フリーセックスは違法でしょう。一夫一婦制は強制しなければならない道徳じゃないかな?誰の子供かわからなくなるから。

by 東西南北 (2008-03-09 21:15) 

mai

>tamaraさん
ありがとうございます。各国の卒業式についてもっと書きたかったのですが、まだ勉強不足かつ、shiraさんが書いてくださっていたようにアメリカの大学でのパーティー式のざっくばらんな式(会?)については映画などでもかなり知られていると思い、あまり書けていません。不完全な記事で恥ずかしいのですが・・・。

第三者の私でさえ、この時期、卒業式のあり方のことを考えると気持ちが沈みます。ですから現場の先生方は本当に辛いことだろうと思います。tamaraさんが書いておられるように、私たちから見たら当たり前の理屈がなぜこんなに通らず、悩まなければならないのでしょうね。ムダなエネルギー消耗のように思います。

「先生方のなかでも抵抗感のある人がいて、歴史的にみてもデリケートな問題ですから、式では(日の丸君が代は)抜きにしましょう」というような、穏やかで大人の対応が日本中どこもできないのが不思議です。

>shiraさん
ありがとうございます。また別記事で書くかもしれませんが、全編「愛国心」に溢れている19世紀イタリアの児童文学「クオレ」(←実はこの本、私はけっこう好きなのです。母を訪ねて三千里など有名ですね)を読み返してみましたが、ここでもはっきりした入学式はないようでした。もしかしたら、時空を越えて、いまの日本の学校の式典、特に厳かな入学式は「国債標準」をはずれているかもしれません。

夫に大学の卒業式のことを尋ねてみました。あるにはあったらしいのですが、講堂のキャパシティーが学生数をはるかに下回っていて、つまり参加者が少ないことを前提としていて、実際周りでも出席者は少なかったらしいです。夫自身はと言えば「忘れたけど、普通に研究室にいたんじゃない?(院進学が決まっていましたので)」ということでした。私は小規模大学で、何となくみんなに会うために出席してしまいました。

>ayu15さん
本当にそう思います。「教育にこそ強制は似合わない」と思うのですが・・・。
by mai (2008-03-09 22:35) 

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