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フィンランドのプレスクールと小学校 [外国の素敵な教育]

前の記事のコメント欄で、山形新聞連載の「フィンランドの教育事情」をちょこっと紹介したところ、「良い記事だ」という感想を何人かの方からいただきました。コメント欄だけではもったいない!と思い、記事中でも紹介することにしました。

もともとはお友達ブロガーのkimera25さんのブログ(kimera25さん、お友達でいいですか〜?)kimera25さんのブログで教えていただいたものです。

kimera25さんとは以前にも、「最近全国紙よりも地方紙の方が良い記事が多いですねー」「そうそう、教育基本法のときもそう思いました(問題点についてズバッと書いていたのは、ほとんど地方紙でした)。政府、アメリカ、財界からのチェックが緩いからでしょうねえ」というようなやり取りをしたことがあったのですが、今回はkimeraさんが山形新聞から見つけてくださいました。共同通信系列の取材という情報もありますので、他の地方紙にも配信されているかもしれません。

詳しくはフィンランドの教育事情を、ぜひ読んでいただきたいです。

記事一覧を挙げておきます。
フィンランドの教育事情
−記事一覧−
2007/06/18 得た知識をどう活用−「学力とは…」問うことから教育は再生する
2007/06/08 安全な環境 競わない、比べない
2007/06/07 子どもの心の問題 専門家チームがケア
2007/06/06 家庭の子育て すべて親から始まる
2007/06/05 図書館利用を促す 読書の習慣、幼少から
2007/06/04 コミュニケーション力育てる グループ作業、表現重視
2007/06/03 幼児教育と縦の連携 小学校への「準備の場」
2007/06/02 教師のゆとり 現場に大きな裁量
2007/06/01 さまざまな“特別支援” 「落ちこぼれ」は出さない

フィンランドは日本の旧・教育基本法を参考にして教育を大きく変えたと言われています。そして、いまではのびのびと楽しく学ぶということと、豊かな学力をつけるということを見事に両立しています(国際学力調査ではほぼ世界一位です)。

感心するところがたくさんあって挙げきれないくらいですが、

・現場の裁量に任せる面が多く、先生方に十分なゆとりを確保している

フィンランドの教育は1994年、カリキュラムや授業時間の
規定など、国の統制を緩和し、現場の裁量を拡大する方針転換が行われ、より子どもたちに
近い教員に大きな裁量が与えられた。レバニエミさんは「80年代は、校長にたびたび授業を
チェックされた」と振り返る。今はそうした管理はない。使う教材や時間割は個人が自由に決める。
「新しい指導法を試みられるし、クラスの進度に合った授業を組み立てられる。教育とはそうあるべきだ」

・競争を煽らず、一人ひとりの子どもに確かな学力をつける

フィンランドでは、就学前教育である「プリスクール」、義務教育の
小中学校、さらに高校や職業学校、大学まですべてが無償。家庭の経済状態が学ぶ機会に
影響しないよう、福祉国家らしい制度だ。平等を良しとする国民は、競争による学力の格差が
生まれることも望まない。人口520万人の国では、一人一人が大事な「資源」。
むしろ差をつくらず、全体の底上げを図ることで、国際学力調査(PISA)の好成績を
実現している。
 他人と比べて競わないから、1年や2年の「スピードの差」にこだわらない。例えば、
小学校に上がるには、まだ幼いとされたり、義務教育を修了するのに十分な力を付けていないと
された児童・生徒に「ゼロ年生」「10年生」という時間と場所が用意されているように。
「結果として平等に」力を身に付ける。

「機会は平等にするけれども、結果の平等は求めない」(安倍首相)といって、小学生から高齢者まですべての年代で競わせてその成果に応じたレベルの教育、賃金、福祉を提供する。これが、いまの日本が取ろうとしている、いわゆる新自由主義、市場原理主義の基本的な考え方です。教育の場でみられるフィンランドの考え方と比べて、どちらが国民を幸せにするでしょう?私は間違いなく、フィンランドの「結果として平等に」力をつける方向だと思います。

「競争はきっと子どもを駄目にする。学び、育つスピードは人それぞれ。
速くても遅くても、みんなゴールに向かっていれば、それでいい」。バンター市で3人の子どもを
育てている専業主婦のカイサ・トロネンさん(43)は話した。

 フィンランドの教育で特に注目されるのは「学力を競わない」ということ。この意識は、
国民に徹底している。いわゆる“普通の主婦”の言葉からも、それがうかがえる。

日本の保護者たちの間にも、こういう賢明さが広がってほしいものです。

そして私がこれまでの日本の教育に不足していた(そして、今後さらに抑える方向に行きそう)と痛感するのが、自分の考えを論理的に相手に伝え、相手が違う考えであっても冷静かつ友好的に議論する力だと思っています。ちょっと話は飛びますが、そういう力がつけば、世論がヒステリックに一方向にドッと流れたり、メディアを無批判に受け入れたり、国の大切な根本である憲法についての議論がダブー視されたり、逆に過熱して建設的な話し合いができないというような、いまの日本のおかしな状態はかなり改善されると思います。

次の記事のような教育を望みます。
コミュニケーション力育てる グループ作業、表現重視

 国際学力調査(PISA)で高い読解力を示したフィンランド。文法学習ももちろん行うが、読んだ文章について考えを表現する力を重視する、こうした授業が一般的だという。

 3、4人のグループで話し合った後、代表でみんなの前に出たヨハンナさんは、文章に書かれていない部分も、自分なりに理解した主人公として語っている。正解も間違いもない。このQ&Aを通して、授業はどんどん生き生きとしていった。

 グループの話し合いをまとめるのに苦労していたパヌ・レイセラ君(14)は、こんな授業が好きだという。「友達の考えを聞けるし、僕の個性も出る。1人で勉強するより楽しいよ。先生の話を聞いたり、書いたりだけの授業は、たまにあるけど、つまらない」

 同校の国語教諭ピリヨ・レバニエミさん(44)は、授業の狙いをこう語った。「文章を読み込む力、自分の言葉で表現する力とともに、グループ作業をさせることで、聞く力や助け合う力を養うんです」。フィンランドでは、ほかの教科でもグループ作業が多い。聞き、話し、互いの得意・不得意をフォローし合う−。国語力の基本、コミュニケーション能力が全教科で培われていくようだ。

 中学3年の授業では、ペアを組んだ生徒同士で将来の夢や趣味を発表し合い、自分が聞いた相手の話をみんなに伝えていた。褒める係、疑問点を出す係、改善点を示す係のクラスメートが感想を述べる。意見は、話の内容だけでなく、話すテンポや発声の仕方、目線の送り方にまで及んでいた。

 3年生たちは6月に卒業を控える。レバニエミさんは送り出す前に、できるだけたくさんの「社会で役立つ力」を付けさせたいと思っている。その核がコミュニケーション能力だ。「自分のことをきちんと表現したり、人の話を聞き取る力が、これからどんどん必要になるから」という。

 このクラスのアンティ・ポホヤネン君(15)も、やはりグループ作業や発表型の授業が面白いと話してくれた。彼の言葉は象徴的だ。「仲良しの友達とばかりペアを組むわけじゃないから、普段、あまり話したことのない相手の言いたいことをすぐに、ちゃんと理解するのは難しい。その分、将来の役に立つはずだよ」

*****************************************
この特集ではプレスクールから初等教育を取り上げています。高校教育については、以前に留学記をもとに私がまとめた記事がありますので、フィンランドの教育に興味を持たれた方はご一読ください。


2007-09-08 12:32  nice!(0)  コメント(13)  トラックバック(0) 

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コメント 13

ayu15

自己責任・規制緩和なのに、教育は自分でなく国で監督して規制強化ですか・・。
by ayu15 (2007-09-08 14:09) 

wakuwaku_44

おそらくmaiさんは、競争社会へのアンチテーゼで述べられているかと思いますので、その線でお話させていただきます。

結論から言って「結果の平等は不可能」だと考えざるをえません。

それは、『個性』の存在です。
人はそれぞれ得意不得意があります。同じことをしてもパフォーマンスが異なるのは自然の現象であって、これを強引に平等にすることは極めて困難です。
逆に、それを平等にすることができたとしても、それはかえって「みんなにとっても不幸なこと」になりかねません。


社会はサッカーに例えればわかりやすいと思います。
全員がキーパーであったら、点を取ることはできません。逆に全員がフォワードだと、今度は点を取られてしまいます。
キーパー、フォワード、ディフェンス、ミッドフィルダー、各々が各々の「得意分野」を生かして、各々の「不得意」を誰かがカバーしてくれるからこそ、チームの勝利という「みんなの幸福」がもたらされることになる。

「AくんはBくんよりもキーパーは上手だが、フォワードは下手だ。」
「BくんはAくんよりもキーパーは下手だが、フォワードは上手だ。」

「キーパー」という視点でみれば、「結果は不平等」です。でも、「チームを機能させる」という意味では、どちらも必要な人材ということになります。


もちろん、格差はできるだけない方がいい。「結果平等を求めない」といっても、「結果が平等」である方が望ましい。

でも、それがいろんな意味で不可能なわけですが、それでも後ろ向きに考える必要などないのです。

なぜなら、ひとりで生きていける万能人間なんて存在しないからです。ここでこうしてインターネットをするだけでも、多くの人の手を経ているわけです。
自分自身が生きていく上で、全部自分でそれを用意できる人などこの世にいない。

ということは、「結果の不平等」をどうこうするよりも、「得意な分野を伸ばし、不得意な分野をカバーする」という自己研鑽と、「得意な分野で社会に貢献しよう」という社会人としての気構えを持つこと。
これが結果的に「格差是正」につながり、「最終的には、結果の平等に近づく」ということになるんじゃないかなって私は思います。
by wakuwaku_44 (2007-09-08 17:16) 

おおくにあきこ

maiさん、こんばんは!
前回の小沢牧子さんの講演会の報告も、今回のフィンランドも、これからの教育を考えていくうえで、とても大きな指針になると思いました。
改訂前の教育基本法も、フィンランドの教育も、たぶん、学ぶということを一定期間に限っていない理念なのだと思うのです。一生かけて、自分を完成させていく、一生かけて興味あることを存分に学んでいけばいい、そういうことなのかなって思いました。期間がないから結果的に平等なんだと思うのです。
山形新聞の記事は、プリントアウトしてとっておきます。ちょうど、息子の中学の教育研究会でフィンランドの教育を取り上げるので、メンバーで回覧しようと思います。ありがとうございました!
by おおくにあきこ (2007-09-08 20:31) 

kimera25

ハイハイ、
そんな「お友達」とかではなく
「下僕」とお呼び下さい!
それで十分ですよ(笑)

平等というのは
現在の日本にはありません。
一時期より
もっと階級・血族が強くなっています。
公教育に差別と分別を持ち込むのが
バカボン安倍の教育制・・
大本は馬鹿八木(高崎経済大学)の考えです。

桜=卒業・入学

これを秋に!
黄昏れた入学式か?
アメリカからの教育侵略を前提にした
馬鹿な改革!
あそうか!
ごめんなさい!
ここはmaiワールドで
kimeraの泥沼世界ではありませんでした。

maiさん!頑張ってください!
by kimera25 (2007-09-09 00:19) 

mai

>あゆさん
こんにちは。確かに経済や福祉では基本的に小さな政府で(大企業優遇策などを除く)、教育では中央集権的な規制強化になっていますね。私の考えでは国家の役割は本来逆で、経済面では富の再分配、福祉・教育分野では内容への介入は最小限にして十分なお金を出すことだと思います。
by mai (2007-09-09 21:00) 

ayu15

武道強制検討されてますよね。
教育には積極介入で、格差なくして、全員武道さすんですねえ。
自己責任で、まかせないんですねえ。

それで武道の本来の心まなべるのかしら・・?

ほんとmaiさんのとおりですね。
うちは人生・生き方を国に強制されるのは耐えられません。
by ayu15 (2007-09-09 22:08) 

mai

>WAKUWAKU_44さん
コメントありがとうございます。個性と競争については私もとても考えるところがありますので、時間とパワーのある時に、詳しくお返事させてください。ちょっとだけ書いておきますと、私がいま一番共感する学校の基本理念が「自己決定」「個性化」「体験学習」であり、個性化は私のなかでとても大事な価値です。

ただ、人生のなかで弱い時期、つまり自分の力でどうしようもない幼少期(親の経済格差や意識に左右されますね)と高齢期については競争はなじまないと考えています。それと、勝ったものがどのくらいまで優遇されるかという問題があります(富、教育、福祉など)。私は幼少期、高齢期には基本的には差は小さいほど良い。成人期でも勝たないものが生活に困るようになってはいけないと思っています。

また詳しく書きます。
by mai (2007-09-12 22:05) 

mai

>おおくにさん
ありがとうございます。>学ぶということを一定期間に限っていない理念なのだと思うのです。一生かけて、自分を完成させていく、一生かけて興味あることを存分に学んでいけばいい、そういうことなのかなって思いました。
私は十分に意識していませんでしたが、確かにそうです。フィンランドでは一般的だそうですが、高校卒業後しばらく好きな仕事についたり、旅に出て自分を見つめ直したり、それから大学に入ったり・・・そういうフレキシブルな生き方ができるのも「一生かけて、自分を完成させていく」という発想からくるのでしょうね。まさに、47教育基本法(現法でも文言は残っていますが)の「教育の目的は、人格の完成である」でしょう。

中学校の教育研究会で使っていただけるとのこと。ご紹介できて、とても嬉しいです☆これからも、お互い情報交換してくださいね。
by mai (2007-09-12 22:12) 

mai

>先輩ブロガーの(笑)kimera25さん
訪問、ありがとうございます。
親の経済格差が子どもに引き継がれる、つまり格差の固定化ということはよく言われますね。

今日、辞職してしまいましたが、第二次安倍内閣でも世襲議員の多いこと、多いこと。親から子に技を伝える職人の世界でもないのに、ほんと、おかしいですね。

kimera25さんが書いておられるような、毒舌(失礼!)な部分、私も十分持ってます。ブログではなかなか書けないので、そちらを拝見してストレス解消?しています。

これからもよろしくお願いします!
by mai (2007-09-12 22:17) 

Ladybird

 「ムーミン谷の仲間たち」の「目に見えない子」というエピソードが好きです.自分を周囲に合わせているため,姿が消えてしまったニンニの物語.

 「この人はおこることもできないんだわ」と,ちびのミイは言いました.「たたかうってことをおぼえないうちは,あんたにはじぶんの顔はもてません」

 北欧はもちろん日本とは違います.しかし学ぶべき事がたくさんあると思います.
by Ladybird (2007-09-23 04:57) 

wakuwaku_44

maiさんへ

>私がいま一番共感する学校の基本理念が「自己決定」「個性化」「体験学習」であり、個性化は私のなかでとても大事な価値です。

maiさんへの反論となって申し訳ないですが。(汗)
私は、人間は元々個性を持った生き物だと思っています。個性は「伸ばす」ものであって「作る」ものではないし、「伸ばす」ことはできても「作る」ことはできないと考えています。
そして、人間は「ひとりで生きていけない」ものだという事実もあります。ゆえに「ONE FOR ALL」であり「ALL FOR ONE」であるとも思います。

経済のことでもお話いたしましたが、特に「人が生きる」というのは、いろんな要素が複雑に入り乱れているわけですから、「何が大切か?」と問われたら「考えられること全部」としか私は答えることはできません。
ただし、人間は万能ではないですから、その大切な部分がすべて理想的な状態にあるわけではない。過剰だったり不足だったりする部分も当然あります。
このために「足りない部分は力を入れる」ということで「今は○○が大切だ」ということになろうかと思います。

>ただ、人生のなかで弱い時期、つまり自分の力でどうしようもない幼少期(親の経済格差や意識に左右されますね)と高齢期については競争はなじまないと考えています。

競争社会に勝てる人というのは、私は「競争を意識していない人」だと思います。

例えば学力については、「誰かに勝つ」のではなく「順位を気にせずに力を着実に伸ばす」と目標設定して、努力した方が、おのずからいい結果が生まれます。
企業の競争も「ライバル会社に勝つ」ことを主眼に置くよりも「市場ニーズは?顧客満足は?どうしたら売上が伸びるだろうか。」と考えて努力した方が、結局はお客さんに受け入れられ、結果的にライバルに勝つことができる。

国や政権は、競争を市場に意識させるわけですが、個人や企業自身がそれに乗っかることは得策ではないと思います。そんな競争を意識するよりも「今あるものをどう生かすのか」「自分の不足をどうカバーするのか」「個性をどう伸ばしていくのか」「どうやって社会(周囲)に自分の力を発揮し、貢献していくのか」と、自分自身を見つめることが、私は競争社会で勝ち残る最高の手段だと思うのです。

>それと、勝ったものがどのくらいまで優遇されるかという問題があります(富、教育、福祉など)。

福祉は「生きるために必要なもので、足りないものをカバーする」のですから、そもそも「弱者」に対するものですから、違った意味で勝敗に影響される分野といえるかと思います。(必ずしも、自由競争による勝敗の結果とは限りませんが。)
逆に富は、「努力して獲得したもの」ですから、これは、本来の意味で勝敗に影響される分野だといえます。
この2つはトレードオフの関係にあると考えますので、結局はその最大公約数として、国民が納得できるラインでバランスをとるのが現実的なんだろうと思います。

教育については、初等教育は機会平等であるべきだと思います。ただし、中等教育以上は、『前段階の教育で得た能力に応じることを条件』とした機会均等でなければならないと考えます。厳しいことを言いますが、この『 』の条件を変更することは不適切だと思います。

その理由として、まず、ネガティブな面をいえば、「勉強したい」という欲求『のみ』で「受けさせろ、受験をなくせ」というのは、単に「わがまま」「自己中心」だということです。
言うまでもなく、授業は1人の教師に対して30人とか40人で受けるわけです。教師は何も1人の生徒のためだけにあるのではない。上記の欲求を単純に叶えることとは、「他の生徒の迷惑になる」ことと「教師の負担が異常に増える」ということでもあります。
従って「この教育を受けたいのであれば、最低でもこれぐらいの学力を持っておいてくれ」というのは、『教師や他の生徒の人権』の観点から見ても正当性を持つものだと考えます。

ポジティブな意味で言えば、それはやはり「個性」だと思うのです。
当然、生きるためには、社会で必要とされる最低限のものはなければなりません。よって、初等教育においては、みんながみんな、その最低限のラインをクリアさせるようにしてあげなければ、これは生徒にとって不幸になります。
しかし、「社会に貢献するには、さらに上を望まないのであれば、これ以上は必要はない」という状況であれば、何も「みんながみんな同じである」必要はないのであって、それこそ「個性を伸ばす」「得意分野を伸ばす」のでいいと思うのです。

>私は幼少期、高齢期には基本的には差は小さいほど良い。成人期でも勝たないものが生活に困るようになってはいけないと思っています。

例えば、試験で全問正解なのに、全問不正解の人と同じ点数だと、アホらしくて勉強をやってられない。そういう意味では、正当な評価が欲しいのは当たり前です。
しかし、逆に、不正解のみを糾弾して0点ばかりつけていたら、今度はそっちがストレスがたまる。
資源の配分を考えないものでしたら、「全問正解は満点に、不正解でも10点ぐらいあげよう」というのはできますが、限りある資源の配分では、「不正解に10点あげる」ときは「全問正解でも90点」にしないといけないわけです。
そこで、「不正解の人に何点をあげればいいのか」という議論と並行して「全問正解でも満点はあげられないが、じゃ、どこまでなら点をあげることを容認するのか」ということが問われてくる。
富の分配というのは、こういうバランス論なのだろうと私は思います。
by wakuwaku_44 (2007-09-23 10:07) 

mai

>Ladybirdさん
初めまして。コメントありがとうございます。コメントいただいていることになかなか気づかず、お返事が遅くなって失礼しました。「ムーミン谷の仲間たち」は確かに読んだのですが、かなり以前(ン十年前)のことなので、書いていただいた部分は覚えていません(ごめんなさい)。でもミイらしい言葉だと思います。私もこうして細々と自分なりに戦っているつもりです(効果のほどは?ですが)。本は家にあったかしら?家になければ買って読んでみます。Ladybirdさんのブログにも訪問させていただきました。またいろいろ情報交換してくださいね。
by mai (2007-09-24 02:09) 

Ladybird

maiさま
 お返事ありがとうございます.また時々お邪魔させてください.
by Ladybird (2007-09-24 20:28) 

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